家康の落胤と言われた名宰相・土井利勝の「誤算」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第26回
■老中首座も務めた土井利勝

茨城県古河市大手町にある正定寺に立つ土井利勝像。正定寺は寛永10年(1633)に玄哲和尚が開山にあたり、土井利勝が創建した。
土井利勝(どいとしかつ)は徳川秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)の二代にわたり、中心人物として幕政を支えた名宰相というイメージが強い武将です。軍事的な面での活躍はあまり見られませんが、将軍の側近として法の整備や経済政策、大名の取次や指導などの面で能力を発揮しています。
また同僚や部下の意見を聞くだけでなく、将軍へも意見を具申するなど、公正さを重んじたと言われています。その慎重さや思慮深さもあり、一説には家康の隠し子とも言われています。
ライバルとも言える本多正純(ほんだまさずみ)が失脚すると、利勝は幕府内で権勢並ぶものなき実力者となります。嫡子の利隆(としたか)も早くから若年寄となるなど、本多正信(まさのぶ)・正純父子のように親子二代で政権の舵取りを担うものと思われました。
しかし、利隆は突如として罷免(ひめん)されてしまいます。そこには老中首座にまで上り詰めた利勝でも読み切れなかった「誤算」がありました。
■「誤算」とは?
「誤算」とは辞書によると「計算をまちがえること。また、その計算。」または「推測や予想に誤りがあること。見込み違い。読み違い」とされています。「誤算」の代わりに「計算違い」という言葉で表されることがあるように、当初思い描いていたものとは違う結果になることです。
有能な人物は入手した情報を判別し、予測や計画を立てて行動を起こし、良い結果を残す事で評価を高めていきます。しかし、予測や計画が甘くなると、期待どおりにならない事も多々あります。幕府随一の人物と称された利勝も、大きな「誤算」を味わいました。
■土井利勝の事績
土井家は土井利昌(としまさ)の養子として利勝が家督を継いだ事から世に知られるようになりますが、その出自は不明な点も多く、『藩翰譜』においては阿部家や板倉家と同じ執事・御役の家とされています。
利勝自身の出自も水野信元(みずののぶもと)の庶子と言われる一方で、先述のように家康の落胤(らくいん)説もあり、実父は謎に包まれています。7歳で生まれたばかりの秀忠の傅役(もりやく)となっている点から、少なくとも利勝と徳川家との関わりが強い事が伺えます。利勝は秀忠の側近として信任を得て、その地位を確立し、関ヶ原の戦いの後には下総小見川1万石の大名となりました。
1610年には秀忠付きの老中となり、1616年に家康が亡くなり秀忠の親政が始まると幕藩体制の確立に尽力します。そして、1622年に権勢を誇っていた本多正純が失脚すると、幕府で第一の実力者となります。秀忠が隠居すると三代将軍家光にも老中として仕え、下総古河16万石を領し、失脚した酒井忠世(さかいただよ)に代わり老中首座となりました。
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